サヨナラの傍観者
ある女子高生が自殺をした。彼女はそれを配信していて、電車に飛び込む後ろ姿が映されていた。
僕は不謹慎ながら、非常に清々しく美しい光景だと思ってしまった。死を覚悟し、何ら躊躇することなく踏み出した行為が、さりげない日常の中で展開されていく感覚。そんなことが起こっても、ひたすらに乗客は冷静で、ホームには柔らかな陽射しが降り注いでいる。
若いのにもったいないとか、命を粗末にするなとか、人に迷惑をかけるなとか。本当に死を決断する人にはそれぞれ事情があり、心に秘めた痛みや苦しさは誰にも分からない。一人の若い命が終わりを迎えた時、他人が好き勝手を言うものではない。
それに、無闇に自殺を止める輩にも嫌悪を感じ軽蔑している。自殺を止めるのなら、その人の深い苦しみを背負い、完全に救済する責任を負うべきである。それが出来ないのであれば、単に自己満足に浸りたいだけの無責任極まりない偽善的行為であるというしかない。
僕がこの女子高生の傍にいて、不穏な動きを察知しても、きっと何もしないだろう。ひとつの命が潰えるのに立ち会った機に、ただ静かに心の中で別れを告げるだけだ。
少女の儚い時、それは短すぎる時間故に、かけがえのない稀少さがあると思っている。これまで長い時を経て、幾つもの尊い時間が失われてきた。いうなればそれは少女期の死であり、もう二度と会うことのない面影に他ならない。
数えきれないほどの死、別れを経験する中で、いつしか僕の中には思い出という名の屍が累積していった。身動き出来ぬまま埋もれるようにして、僕はその死を肌で感じ、そしてそれを糧に生きる術すらも学んでいた。
それでも少女期の死を看取る度に、また新たな喪失感と空虚な心持ちに繰り返し悩まされることになる。
スターダストCM部門に所属していた森崎美月が、昨年末にニコ☆プチモデルとして新たな活動をスタートさせていた。
およそ四年ほど前にUSJのCMで見かけて以来、痛烈に虜となり、熱い視線を送ってきたが…その後は、これといった新展開もなく、長い月日が経過してしまっていたのだ。
(参照:王道アイドルを物思う時)
そして、その初めての自己紹介動画を見る機会があったのだが、残念ながら落胆を禁じ得なかった。似合わない変なパーマをかけた髪形に、年齢に不釣り合いな大人びたフォーマルな装い。思いのほか声も低く、かなりイメージとかけ離れた印象が強かったのだ。
まだ六年生であるものの、若干、面長劣化の兆候が見え始めているのも気になった。顔の輪郭が縦に伸びるタイプのものだが、この系統は劣化のスピードが通常よりも速い傾向がある。
USJCMの頃の、眩いばかりの美少女ぶりは影を潜めつつあるのか。僕の中で、また一人、忘れ難き少女期が思い出だけを残して去っていくようである。
ただ逝くためだけの命。此処にこうして生きていることは、須らく在るだけの自然の摂理であり、単なる偶然に過ぎないのか。
ひとつ信じるものがあるとすれば、本能に訴えかけるかの美しさ、未完成であればこその一瞬の輝きに他ならず。
去りゆく少女の時は、永遠に心の中で留め置かれる。絞り出すようにして発したサヨナラが、いつか出逢えた喜びを顧みるかに散り散りと胸の内を舞っていく。僕はただ、置き去りにされた傍観者でしかなかった。
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