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2019/08/21

あるべき美少女の相乗効果

小杉ゆん、南かな

美少女の相乗効果による魅力の増幅は、これまでに幾度も言及してきた。しかしながら、決して間違ってはいけない。単体で魅力の少ない子が、無垢な女子の戯れにより可愛らしい雰囲気を帯びているに過ぎない、只のまやかしであってはならないということ。
その子自身が特段の美少女であるのが絶対的な前提条件であって、更なる魅力の増量であるべきなのが、本来ある美少女の相乗効果といった定義付けなのである。

地下における乱立によって、全体的なビジュアル劣化が懸念されるようになって久しい。ただ、そんな中にも奇跡的ともいえる美少女のコラボレーションが実現することが、稀にあるもの。
惜しまれながらも先月をもって解体したと思われる、「ゆんかな」という名のコンビが居た。小杉ゆん南かなによる、公称?モデルユニットと呼ばれたものだ。
小杉ゆんは以前にも取り上げた、小学生にしてギター弾き語りの芸達者な美少女。南かなは大人っぽい印象が際立つものの、少女っぽい美しさも併せ持つ異色な美少女という雰囲気。普段から親交が深いのか、姉妹のように戯れ合う姿が数多く写真に残されており、この上なく癒されることが多かった。
モデルユニットとしての被写体で評判が良かった彼女達だが、地下のステージで共演したりもしている。主に、小杉ゆん演奏南かなボーカルという形態が多いようだが…南かな歌声が力不足という印象が強く、あまり見るべきものはなかったようである。
以前の記事で紹介した「ゆうねゆん」のクオリティには遠く及ばない。(参照:少女の奇跡の発露とはいえ、これほどの美少女が二人もステージに立つだけで華があるというもの。地下のレベルで考えれば、想像もつかないくらいの高水準コラボといえるだろう。

AKBグループにおいて印象に残った美少女コンビに、HKT48なこみく矢吹奈子田中美久)というのが存在した。ローティーンの頃の彼女らは、まさに天使と呼んでも差し支えないほどに輝いていたのを、今でもよく覚えている。
現在は残念ながら、顔の造形が変わってしまったり、巨乳化してしまったりで、もはや見る影もなくなってしまったようだ。
その後継として、にわかに取り沙汰されているのが、「いぶはる」こと石橋颯工藤陽香の二人組である。ともに、五期生の13歳という若さで、際立ってフレッシュな魅力に満ちているのが特徴的だ。
なこみくが双子のような可愛さがあったのに対し、こちらは見た目の印象だけでも少し個性的に見える。石橋颯は牧歌的な普通っぽい可愛さが見受けられ、工藤陽香はお人形系の正統派美少女という感じか。若干タイプが違うようだが、これが意外にうまく溶け合っているように思える。いうまでもなく二人共、飛び抜けた美少女ぶりである。
もはや衰退していくイメージしかないAKBGではあるが、一部の新世代には十分に見所のある子が存在している事実に、やや安堵した次第だ。
工藤陽香、石橋颯

少女の発する心和ませる独特の癒し効果とは、的確な組み合わせと清純さに秀でた演出により、大幅に増幅させることが出来る。
無差別の暴力、煽り運転、ネット空間での誹謗中傷…こうした現代の殺伐とした世界で生きるにあたり、少女の癒しのような要素は不可欠になってくる。

どこまでも澄み切った眼差しで心の奥深い内面に触れてくるような、美少女だけが有する美しさ。かけがえのない大切なものを胸に刻み込むようにして、この世知辛い日常を過ごしていきたいと願うのみである。

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2019/08/07

清純派の真価

林芽亜里

少女の少女たる所以とは他でもない、未成熟であるが故の純粋さと、あどけない面影が想起させる特有の美しさにある。
それは、極力余計な手を加えることなく、ありのままの姿形で見せることによってのみ、最も輝きを発するものと固く信じている。
必要な要素は、あくまでも清楚な雰囲気だけで良い。清純さで引き立たせる、少女ならではの美しさ。これこそが、少女本来の美の本質であり、他の何物であっても決して代わりになるものは存在し得ないのである。異論は認めない。

こういった信念に基いて少女を吟味する時に、おおよそ期待外れ、的外れ、そうして大きな落胆に見舞われることが、今の時代には特に多いように感じてしまう。
とりわけ、ティーン誌のモデルの類いには辟易しているところ。モデルとしては当然なのだろうが、時代に即した最新鋭のファッションやら何やら、日常とはおよそかけ離れたような気取った装いに終始し、折角の少女らしい可愛さが台無しにされていることが非常に多くて参ってしまう。

ローティーンモデルの中で、とりわけ気に入っているのが林芽亜里ニコ☆プチでは、エース格の扱いでカリスマともてはやされていたが、現在は二コラ専属モデルとして活躍中である。
まだ弱冠13歳だが、端正で可憐な容姿と笑顔の柔らかさが魅力的で、かなり理想にほど近い美少女の雰囲気を有している。ただ残念ながら、その清純な美少女ぶりが完全に発揮されているとは言い難い状況が続いている。
いわゆる、お洒落感覚を重視した今風のモノトーンの衣装や、年齢不相応な大人びたファッションによって、清楚な魅力は影を潜めてしまっているようだ。13歳の少女期ならではの良さは、ほとんど感じられないというのが正直な印象か。

そもそも僕は、モデルというのがあまり好きではない。モデルというのは、いわばお人形に過ぎない。雑誌などで見せているのは「服」であって、それを着ている女の子は問題にされない。悪い言い方をすれば、百歩譲っても「出来の良いマネキン」である。
雑誌モデルになって、同年代の女子からもてはやされ、カリスマ扱いされたとしても、本当の意味でその子自身に魅了されているわけではない。あくまで「流行のファッションに身を包んだ綺麗なモデル」という、ひとつのパッケージに惹かれているだけだ。
ほんの僅かな時間で、すぐに忘れ去られるし、流行り廃りによって若い子の気持ちなど簡単に移ろっていく。しかし、どうだろう。アイドルとなれば、話は全く変わってくる。
旬の時期が短いのはあるだろうが、少なくともアイドルファンというのは、その女の子しか見ていない。その子がどんな服を着ようが関係なく、可愛さやキャラクターのみを愛し続けている。その子がどんな一面を秘めているか興味が尽きることがなく、頑張っている姿を知れば、お金を払ってでも全力で応援する。これは、ある意味、個の人間性そのものを最大限に尊重しているといえまいか。

それにモデルというのは、カチッと洒落た装いで決めた写真ばかりで、全く隙が感じられない。要は、可愛げがないのだ。
林芽亜里などは、折角良い笑顔があるのに、SNSの写真ですら、「この服可愛いでしょ?」といわんばかりに澄ました「決めた」ものばかり。僕にいわせれば、服なんかより芽亜里の素の表情だとか日常の姿を見てみたいし、等身大の女の子としての可愛さを堪能したい思いで一杯なのである。
ひとつ例を挙げると、昨年度さくら学院を卒業した新谷ゆづみのエピソードに、こんなものがあった。
レッスンの帰りにお洒落なワンピースを着けていたのはいいが、その裾からチラチラとレッスン着のジャージ?が覗けていたらしい。メンバーが指摘しても、ゆづは気にかけることもなく「大丈夫、大丈夫」と、はにかんでいたとのこと。
ダサいエピソードだし、ポンコツ感満載なのだが、そういう一面が妙に愛しく可愛く思えてしまう。少し抜けている、人間味ある温かさみたいなものを欲しているのだ。

理由の如何に拘らず問われるべきは、清純派としての美少女の真価。生命力に満ち溢れた若々しい美しさを得た少女の時間において、ただ時代の流れに身を任せただけの余計な飾り付けによって、その本質が蔑ろにされることがあってはならない。
少女本来の美しさを際立たせるには、つまらない装飾を極限まで廃し、清純派の衣のみを身に纏って其処に存在するだけでいい。
本当の少女美に触れた時、心の何処かに秘匿されたかの大切な光輝、いわば少女の魂に出逢えた感慨に満たされるのだ。

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