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2019/06/13

仮想世界で形作る理想像

ツーサイドアップそよ

人気を博する有名なタイトルはもちろん、国内海外問わず幅広く一般的になったゲームシステムに、キャラメイキングというのがある。
僕はこれが好きで、基本的にこれがないゲームは手に取ることがない。いうまでもなく作るのは女性キャラで、もはや意識するでもなく理想的な美少女像へと寄せていく。
海外は美的感覚が違うのか、或いは規制でもあるのか知らないが、日本人好みの少女っぽい造形は先ず作れない。いわば、和ゲーの類いに絞られるが、かなり好みに近い細かなカスタマイズをすることが出来る場合がある。

ゲームという仮想世界であるとはいえ、自分だけのキャラクターで遊べるのは楽しいものだ。こうしたキャラメイクを通じて新鮮な驚きをもって知ったのは、最近の若者には当たり前とされるファッション用語髪型の種類である。
我々の時代ではオーバーオールと呼んでいたものは、サロペットというらしい。流行りのガウチョパンツというのは、あれ要するに袴だろう。どうにもついていけないわけだが、やはり特筆すべきは女の子の髪型に関することか。
海外ではほとんどないが、国内ゲームの少女キャラに定番なのが、ツインテールである。僕はこの髪型を連想する時に、あの例のメタルアイドルグループのような高めに結んだ形のイメージが思い浮かぶのだが、実際には多種多様の形態があるようだ。
その多くの中から、とりわけ気に入ったのがツーサイドアップという種類であった。頭頂部に近い一部の髪だけを左右に束ねた、一見してロングストレートにも見える、ツインテールの一種だ。
単なるロングヘアだと大人っぽい印象が強調されがちだが、このツーサイドアップだと良い具合いに少女感が出て、清楚な雰囲気も一層強まる感じがする。本来のツインテールだと少女っぽさが出過ぎるが、こちらは良いバランス感なのである。
そして、実際のアイドルなど見ても、この髪型の場合に非常に可愛さが増す気がしたのは気にし過ぎだろうか。いつにも増して、三割増といった印象さえある。

さくら学院を例にとると、推しの吉田爽葉香などは、主にお下げ髪が多い印象。しかしながら、たまにこのツーサイドアップにすることがあり、そんな時には一段と可愛く見えてしまうのは何とも不思議なものだ。
外仕事のレピピモデル時には、残念なことに、ほとんど魅力を感じられない。今風のカラフル過ぎる気取ったファッションが鼻に付くし、何より眼鏡補正効果が外れてしまうからに他ならない。(参照: 美少女の補正効果
そよはやはり、地味な制服に眼鏡必須で、清楚さに秀でた髪型。これに尽きる。お下げや三つ編みも良いが、ツーサイドアップにすると最強に可愛いとはっきり断言しておきたい。恐らく、賛同する父兄も多数いると思われる。

さくら学院で髪型の話になると、額を出している子が増員されたのが気にかかってしまうわけだが…。
在校生の八木美樹については、あまり気にしていないし興味のあるタイプでもない。ただ、転入生の戸高美湖に関しては、今の髪型を何とかして頂きたいと切に思うところあり。
アクターズ出のスキル面ばかりが取り沙汰されるが、この子、前髪をきちんと作ったら結構な美少女だと思う。髪を上方向に引っ張り過ぎて、生え際が微妙になってきてるし、ちょっと職員室も考えてあげて欲しい。
可愛さを引き立てる要素である髪型は、アイドルにとって最も重要であるといっても過言ではない。可愛さありきの、キャラクターアピールやパフォーマンスの向上であるという原則を決して忘れないで欲しい。

報われない現実に目を背けるようにして、ゲームの中の仮想空間で、自分好みの美少女像を組み立てるしかない哀しさがある。
救い難い悲哀を感じ得るが、僕の中に未だ理想とする少女の存在が宿っている事実を確かめることで、ある種の安心感を得ることが出来るともいえる。
現実の世界に失われた、永遠とも思える美少女の横顔を求めて。この荒廃した人生を彷徨い、戻ることのない時間に幻を見るように求め続けるのが、まるで自身に課せられた宿命であるかのように、今この瞬間を生きている。

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2019/06/06

命の重さと直面した問題を考える

例の殺傷事件など見ていると、命というものを考えさせられる。報道の仕方や現場に山積みになっている花束など、子供が巻き込まれた事件の扱いをとっても、いかに大きな影響を与えているかが分かる。

遠方から来て花を捧げ、涙すら流している人々への違和感。殺された子が可哀相というが、病気で苦しんで死んでいく子も沢山いるし、それを言い始めたら全ての死人が可哀相である。赤の他人が死んで泣いている自分に酔っているのだろうか。理解し難い行為だ。
冷たい考え方に思われるかも知れないが、死とは全て同一のものである。病気で死のうと、事故で死のうと、誰かに殺されたとしても、死は単なる死でしかない。死者の為に出来ることなど何もない。どんなに花を手向けようが、盛大な葬式をあげようが、それは残された遺族を慰めるものでしかないのだ。
もしも、僕がこの事件現場の近くに住んでいたなら、通りがかりに、そっと手を合わせるくらいはしただろう。事後処理の手間を考えたら、花など手向けるべきではない。ほんのわずか、気持ちを添える。その程度で十分だと思う。

これが子供でなく、老人だったらどうだろうか。世間から忌み嫌われる無職中年男だったらどうだろうか。マスコミは大して取り上げないし、花を捧げて手を合わせる人も少数の物好きだけに違いない。
要するに、人の命にはそれぞれ重さがあるのだ。未来ある子供の命は重く、先のない老害や社会のお荷物の命など軽いに決まっている。
誰も公の場で一切口にしないが、これが誰しも思っている真実なのである。いうまでもなく、ごく当たり前の認識となっているはずだ。

犯人に対しての「独りで死ね」という発言に関し、賛否両論があり議論が盛んになっていると聞いた。
命が大切だ、殺されて可哀相と言っておきながら、一方では犯罪者の命は軽んじている矛盾が生じている。というよりも、あの発言は引きこもりで自殺を考えるほど悩んでいる人達に向けられたものと理解している。尚更、たちが悪いだろう。
就職氷河期世代、僕なんかもそれに該当し、非正規の仕事で日々の生活は苦しい。時に仕事の空白期間もあり、そんな時期は引きこもりがちになる。それだけに、僕は自分が「死にたきゃ勝手に独りで死ね」と言われた気がした。
別にいわれるまでもなく、僕は独りで死ぬつもりだし、誰かに迷惑をかけるつもりもない。だからといって、声を大にしてそう言われたら、嫌な気分になるし不快感しかない。もっと深刻な状況に置かれている人であれば、大いに腹を立てるかも知れない。

要は、切捨ての解釈なのである。社会の寛容さが欠落した故の自己責任論で、中高年引きこもりの問題を回避し続けてきた。その負の側面が、次第に露呈してきたのだろう。
犯人の家族は、14回も役所に相談に訪れていたという。明らかに困り果てているのが分かるのに、ようやく出した答えは「手紙を書け」である。恐らくは内容や文言に関する注意事項もなく、素人の思いつきのようなものと推測される。
結果、手紙の中の「引きこもり」という文句に逆上した犯人が、これをきっかけに犯行に及んだ可能性も取り沙汰されている。社会の冷徹な対応が、こうした事件を引き起こしたというわけだ。

危険地帯と知りながら赴いて、テロリストに捕まる。いわば、こうした類いの自己責任とは種類が違う。
最初は誰でも頑張ったし、より良い方向へと向かうはずだった。しかしながら、人間関係や体調不良、リストラなどに悩まされ、心ならずも引きこもりになった人が大多数であろう。そうした人達にまで自己責任論を押し付け、救済しない社会。これが正しいと思う方が、よっぽど異常である。
本当に悩みを抱えている人がいれば、積極的に関わって解決していく制度が必要だし、企業も再就職をもっと支援するべきだと思う。
人手不足だから外国人ではなく、就職したい日本人がいるなら、年齢や経歴を問わず雇用していくべきだ。そして当然、正規雇用にしていくのが望ましいが、非正規であったとしても、待遇改善が必要なのはいうまでもない。先進諸国においても、これほど非正規が虐げられているのは恐らく日本だけだろう。

命が平等というのであれば、それぞれの人生も平等に希望あるものでなければならないはず。
子供が死んで可哀相と泣いている場合じゃない。置き去りにされた大きな問題を今一度よく考え、こうした凄惨な事件が二度と起こらないように根本的な策を練る必要がある。それは警備員を増やすとかでなく、高齢引きこもりへの抜本的対策に他ならない。
子供が可哀相と泣きながら、独りで死ねと罵る人々には、虫唾が走るような嫌悪感しか感じない。いい加減、綺麗ごとは止めにして、今ある問題を直視し、良識ある社会を形成していくために何をするべきなのか。全ての人に真剣に考えて頂きたい。

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