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2019/03/18

宗教や文化の交わりを考える

あの、例のニュージーランドのテロ動画を見てしまった。大量殺戮の凄惨な映像だが、淡々と作業をこなすかのように発砲する様には、ショックというより現実味のなさをより強く覚えてしまう。
映画などでよく見る血が飛び散る感じもなく、折り重なり倒れた人々を黙々と銃撃し、助けを求める女性にも容赦なく銃弾が浴びせられていた。多分、犯人はFPSのゲームでもやっている感覚でしかないのだろう。
ただひたすらに、人間の脆さと虚無感だけを感じていた。ニュージーランドといえば若者の海外留学先として人気であり、ついこの前まで武藤彩未なども留学していたと聞いている。信じられないような惨たらしい事件が、すぐ身近で起きているのだ。

今、世界が歪んでいると感じている。無尽蔵に移民を受け入れることが正しいとする風潮に違和感を覚えるし、外からやってきた者に、そこいら中にモスクを建てられたのでは、当然反発も起きるだろう。
かといって、このような残虐なテロは許されないが、きちんとした住み分けは必要に思う。イスラムはイスラム圏に、キリスト教圏を侵すことなく、それぞれが独自の文化を営めば良い。宗教の自由とはいうが、殊に宗教的な対立は相容れないものがある。きっちりとボーダーラインを敷くべきだ。

これは偏見といわれるかも知れないが、個人的にイスラム教というものには不自然さや違和感、そして得体の知れない恐れを感じている。
宗教というのは、人が心の平穏や幸福感を得るためにあるのであって、厳しい戒律に縛られたり、人々がいがみ合うためにあるのではないはず。一日に何度もお祈りしたり、断食したり、あれこれ食べられないものがあったりと、日常生活に支障をきたすような状況が果たして宗教としてあるべき姿なのだろうか。
それに、今現在、世界的にテロの応酬や戦争などで何千何万という人が死んでいるが、これらの多くにイスラム過激派が関係している。
無論、本来のムスリムの人達は善良であって、凶悪なテロリストでないことは理解しているが、こうした過激派がイスラムに根付き生まれた事実は否定出来ない。例えば、キリスト教や仏教にも過激派がいて、世界中で人を殺しているか? 少なくとも、聞いたことがない。
中東の長きに渡る混沌を見れば、複雑な事情があるのかも知れないが、個人的な感情としてはイスラムには関わり合いたくないと思ってしまうのは正直なところなのだ。

念を押しておくが、別にイスラム教を否定したり、信仰する人々を差別する意図は全くない。ただ、他と交わることなく各々の圏内で生活を営む方が余計ないざこざを避けられるし、それぞれ幸せだろうというだけの話だ。
移民という問題は一筋縄ではいかないが…経済的な事情その他により移民になるということは、要は自分らの国を捨てたということに他ならない。それなのに、他国に自分らの宗教や文化を持ち込むというのは、あまりに身勝手のように思える。
国を捨てて、他の国の一員になろうと思ったら、それまでの習慣や文化を一切捨てて、その国に完全に溶け込もうとするくらいの覚悟が要るのではないか? これは果たして言い過ぎなのだろうか。
 
今回は珍しく堅い話になってしまったが、あのおぞましい殺戮に一抹の虚しさと無力感を覚えたせいかも知れない。
僕は神なぞ信じてもいない無宗教なので、こんなことも平気で言えるのだが、実際に宗教に人生を捧げている人の立場からいえば、もっと奥深い信念や感情があり、僕のような人間が簡単に推し量れるわけはないのだろう。
いずれにせよ日本はこれまで通り、高いハードルの移民政策を続けて欲しいと切に願う。外国人労働者の受け入れを緩和させるようだが、これがエスカレートして、欧米に見られるような全面的な移民受け入れ、それに迎合する風潮になるのには絶対に反対である。
日本は東の端の島国で、独自の文化や風習を古来より伝承してきた。異文化有する外国人を無尽蔵に受け入れれば、この大切なものがいとも簡単に破壊されてしまう。単一民族故に民族紛争がなく、平和国家を樹立することも出来た。
世界随一といわれる治安を維持するためにも、たとえ閉鎖的と揶揄されようが、我が道を往く国であって欲しいと願うばかりだ。

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