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2017/05/14

尊厳ある死 安楽死

先日、献血回数が60回に到達した。だからといって、何か達成感があるわけでもない。最寄りの献血ルームが綺麗で居心地が良く、飲み物がタダで飲めて、ひと休みするには最適だからというだけの話だ。
こうして採取した血液やら血小板やらも、そのほとんどは後期高齢者の治療のために使われると聞いたことがある。加速する少子高齢化に、ひと役買っているというわけだ。考えてみれば、愚かな行為に違いない。
人間などというものは、身体が朽ちてきたら自然に任せ、死を受け入れればいいのだ。寝たきりや、まして認知症になってまで無理に生き長らえる必要などない。然るべき時が来れば、各々の価値観の下に尊厳ある死を選ぶべきなのである。

そういった意味においては、安楽死を肯定する立場にあると思う。いわゆる、末期患者重度の認知症を視野に入れた、オランダ式の積極的安楽死というものだ。
以前に、オランダの認知症老人が将来的な家族の負担を憂慮し、薬物による安楽死を選択したドキュメントを見たことがある。家族はその決断を悲しんだが、最後は自身の判断で薬を飲み、家族に見守られながら苦しむことなく息を引き取った。
実に素晴らしい最期だったと、感銘を受けたのを憶えている。僕には、近親者が同じような認知症を患い、重度に進行した上で亡くしたという経緯がある。認知症とは脳を破壊する病気であり、回復が見込めないのは知っての通り。初期から中期にかけては、妄想や徘徊、酷い場合は暴言や暴力が出ることもあり、介護者を疲弊させる要因になる。
僕の近親者のケースでは、約五年弱で急速に進行し、意思の疎通が全く出来ない重度になって病死に至った。最後は目の焦点も合わず、訳の分からない呻き声を発しながら死んでいった。あれが、人間の死に様とは到底思えない。

自分が何者であるかも分からず、多大な負担をかけた家族の顔も忘れ、死んでいくことの悲惨さ。人間の人格や心を形成するのは、脳そのものである。これが壊れたなら、それは紛れもない死そのものだといえよう。
積極的安楽死という制度を取り入れるべきだと強く思う。人間としての最期、終わり方というものは、個人や家族の手に委ねるべきだし、この権利が例え国家からであっても侵害されてはならない。
無論、厳格な基準に基づいて慎重に行われるべきなのはいうまでもない。認知症に関しては、一定年齢に達した時点で意思表示を義務化しても良いとまで思っている。つまり、将来認知症を患い、判断能力を失った時に安楽死を希望するかどうか。
家族に負担を強いてまで寿命を全うしたい人はそうすればいいが、恐らくそんな人は、ほとんど居ないだろう。間違いなく大多数の人が安楽死を希望するに違いない。誰もが、尊厳ある死を望んでいるはずだ。

途方もない規模の高齢化社会による社会保障費の増大にも、歯止めがかけられる。浮いた財源を、待機児童問題教育費の助成などに充て、より子供を育てやすい環境を整備すれば、少子化に絶大な効果が上げられるだろう。
しかし実際のところ、非現実的な話である。やれ倫理だ何だと、綺麗ごと大好きなこの国の国民性では、議論すらタブー視なのだから。政治家は票を取るのに躍起な無能ばかりだし、来たるべき超高齢化社会の抜本的対策は未だ皆無である。
まあ、元から長く生きるつもりもない僕には、正直どうでもいい問題でもある。ただ、楽に逝ける方法を国家が提供してくれるなら有り難いな、という程度の話だ。
極端な話、自殺志願者に安楽死を適用しても、自殺者が増えるどころか大幅に減ると思う。いつでも楽に死ねると思えば、それが却って生きる活力になったりするもの。少し考えれば、誰でも分かることだ。

成分献血は、一時間ほどかかることがある。そんなことを取り留めなくぼんやりと考えながら、血を抜かれていた。僕は最近、死に取り憑かれているのかも知れない。あまり良い兆候ではないのだろう。
ただひたすらに、美少女に惹かれ続けた半生。僕が本当に追い求めるのは、無垢な少女に癒される妄想にどっぷりと浸かったまま、仮の充足感に満ちた心境で最期を迎えることに相違ない。つまるところ、安楽死である。

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